Gumroad へのワクワク感と懸念についてつらつら

一昨日ローンチした Gumroad が熱い。

 

個人クリエーターの少額決済サービスは、有るには有ったけど、売る方や買う方の手続きが猥雑なものばかりで中々決定打が無かった。

しかし、Gumroad は

  • 売る方→Paypalアカウント(持っていなければこれは作る必要がある)をTwitterやFacebookのアカウントと紐付けたGumroadアカウントを作り、デジタルデータをアップロードしてSNSやBlog、メルマガ等で購買層が居るであろう場所にGumroadのそのリンクを晒す「だけ」
  • 買う方→そのリンクをクリックしてクレジットカードの番号とメールアドレスを入れる「だけ」

 

もう本当にこれ「だけ」で即座に決済出来るのだ。これはやってみればわかるけど、簡単すぎて笑っちゃうぐらいだマジで(笑)

やってる事は単に「クレカとPaypalの紐付け機能付きのurl短縮サービスアップローダー付き」の一言に尽きるんだけども。でも無かった。盲点。

これは大げさでなく音楽家、絵描き、動画作家、文筆家は元より、アイディア次第で本当に色々な「貨幣のやり取り」の革命だと思う。言ってみれば「投げ銭ワールドワイド」。マジで待ってたんだよねこんなサービス。

なぜ待っていたかというと、大規模に流通する所謂「メジャー」な人達には多分関係無いが、受け手が「数人」「数十人」「数百人」多くても「数千人」を相手にする中小クリエーターにとって、小規模決済の敷居は死活問題だからだ。

何故なら、人数が少なければ少ないほど(そして、小口の作品を多く発表するタイプであればあるほど)一個一個の手数料や、コンテンツの登録から売るまでの「手続き」などの負担や、発表までの「スピード」といったものが大事になるからだ。

手続きが猥雑であったり(自分の人件費も立派なコスト)、中間手数料が多いほどこれらのタイプの人はコンテンツから得られうる報酬や発表するモチベーションが下がる。つまりマイノリティ・シーンが盛り上がらなくなる。例えそれが発表されれば需要があるとしても。

そうすると、小口クリーターがその創造行為だけで色々な事が賄える可能性が狭まる。これは結局誰も幸せにならない。

しかし、Paypalだけでもまだ高かったその敷居が、 Gumroad が破った、と思うのだ。

 

繰り返すけど、「簡単」「手数料が低い(価格の5%+30Cent)」たったこれだけのシンプルな事で、色々な物事がとても動いていきそうでワクワクしてくる。

まぁ、その他の詳細は色々ブログ等で紹介されているのでそちらを参照してもらうとして、違法配信に利用される懸念が上がっている件について。こちらの議論の深津さんの解釈に僕は近いですね。

まず、僕のスタンスとしては、今回 Gumroad 固有の問題としてはあまり何も見えなくて、例えこのサービスが今まで問題になった Megaupload の様に閉鎖されたとしても、「可能な事」はいずれ誰かが作ってしまうので結局モグラたたきになるので本質的な意味は無い、という事。

ある国が既存の法律をあてはめ、又は法整備をする事によって閉鎖されてきたサイトは数多ある。しかし、手を変え品を変え同様のサービスは結局何処かで産まれるし、逆に閉鎖することによって地下にもぐれば、更に我々の目の届かない所でその筋の人達が云う「泥棒行為」が行われる。典型的なイタチごっこだ。

Youtubeと某中国の違法コンテンツサイトとどっちがその「泥棒行為」をあぶり出し易いか?答えは明らかだろう。

そして、iTunesが普及するにつれMP3違法ダウンロードが減っていったのは何故か?

「本当に欲しいもの」を得る労力が、torrentを漁るよりもiTunesで買うほうがいろいろな意味で「安くつく」からだ。特にNet Nativeではない多数の人達にとって。結局費やす時間や利便性は価格なのだから。あ、別にそれ程欲しくないけど、あったらいいなー位のものはまだtorrentのが安いかも。でも此れは結局torrentが無くなっても買わない人達だから関係ない。

それよりも、例えばこの Gumroad の様に、口座登録と本人確認が原則的に為されている Paypal と紐付けられたサービスであれば、例え違法コピーが行われたとしても捜査の手が入れば脚が付く可能性がかなり高いし、何より「可視化」されやすい。

勿論虚偽のアカウント(銀行口座等では現在かなり難しい)によって所謂違法コンテンツを売って「もらい逃げ」される懸念はゼロでは無いが、その様な懸念はどのような事象にも起こり得るし、それを云ってたら現実の商取引だって農家の無人販売だって起こりうることだ。そこもどうでもいい。

それよりも、例えば Gumroad が内部でキーワード検索を設けたり、Youtubeの様に静止画、動画(Gumroadにアップロードされているものについて)の著作侵害検索を行えるようにするか、それでなければ、第三者がリンク先の見出しのキーワードクローラを行う方がよっぽど発展的に思える。

兎に角僕は、この Gumroad という19歳の天才(やったことはシンプルでも、そこを最初に実現できるのはやはり天才)の作ったシステムに、明日ここで予想もできない何かが起こりそうな予感で、Youtubeやニコニ・コモンズやTwitterが出た時のようにワクワクしてるのですよ。

カテゴリー: メディア, 社会システム, 著作権 タグ:

時間という共有。ドリフは偉大だった件


仕事とプライベートとTwitter(笑)にかまけていて、気が付いたら5ヶ月程も更新を滞っていた。

TwitterにPostする頻度とBlogの更新頻度が負の相関をするんじゃないか?と色々な人が指摘しているが、多分その傾向はきっと有るなこりゃ間違い無く(言い訳)

Blogは書き手からの一方的な発信だけど、Twitterは投稿とリプライが同列にリアルタイムにタイムラインに並ぶ、フラットなメディアだ。コンテンツ的にはツリー型のサーバ クライアントモデルが前者で、P2P型が後者になる。そして、そのリアルタイム性によって予想もしない議論が発展したりするのもTwitterの醍醐味だ。

音楽のライブの現場に「ハウリング」という現象が有る。スピーカーから出た音をマイクが拾い、それがスピーカーから出た音をまたマイクが拾い…と音がフィードバックする事によって、特定の周波数が発振して「キィーン」とか「ボー」みたいな音になるのがそれだ。聞いた事有るでしょ。
で、これはTwitterのようなリアルタイムメディアで起きる予測出来無い発言やRTの伸びにとても似ている。そして或れは「ライブ」「生」であるからこそ発生する。

片や録音されたCDのようなメディアも、収録されている音はマイクで集音してる処までは同じなのだが、リスナーのスピーカーから音が出る時には集音はとっくに終わった後なので当然ハウリングは起きない。
これはBlog(や書籍等の非リアルタイムメディア)っぽい。完成度は高いが、単発で、発展は少ない。

ハウリングはPAエンジニア泣かせの困った現象で、どのマイクがどの角度や位置でどのスピーカーに向いていてその時どんな音を集音したか?によって様々な周波数の音が発生するので全く予測出来無い。
Twitterでの議論も時に全く予測出来無い方向に発展したりする。そして其処で起きる議論は殆どの場合面白い。

何故か?

理由は、議論に興味を持つ人々が集まっているとか、2chとかと違って匿名ではなく皆「ID」を背負ってるから無責任な議論にならないとか様々有るが、先程挙げた
「会話は予測可能では無い方が面白い」
という極々当たり前の前提がまず一番大きいだろう。
「ライブでのハウリング」は秩序の破壊だが、「思考、会話のフィードバック現象」はエンターテインメントになる。対談や座談会が面白いのもまさに其故だ。

だからTwitterは140字の制限がじれったくはある(それがプラスに働いてる部分は大いに有る)が、これだけの規模で急激にキャズム越えをしてるという面が有るんだろうと思う。

そして、このリアルタイムフィードバック効果が、潜在的にコンテンツやメディア産業に及ぼす影響はやはり大きい。というか、今後はますます大きくなっていくだろう。

今のようなTwitterやUSTREAMの隆盛が有り、ネットゲームが当り前になり、モバイル端末の普及によって常時そういうメディアを送受信(受信だけでは無い処が重要!!)出来るようになると、その傾向に益々拍車が掛かり益々その認知や効果も増幅される。



例えば、僕は普段サッカーやスポーツ全般は全く見ないんだけど、流石に今回のワールドカップの日本戦はリアルタイムで見た。
当然Twitterでつぶやいたりもして、翌日は皆とその話をする訳だ。其処には所謂「共有体験」が有る。

まぁ当然と言うか、ある意味びっくりと言うか、日本戦は一時的に世界中での一秒当たりのTweet数で新記録を更新したらしい(数日後、やはりワールドカップの別な試合でまた更新された)。それに際してtwitter社は急遽、負荷に耐えられるように一時間当たりのAPIアクセス数上限を普段の半分に減らした。でないとサーバが落ちる、と判断した訳だ。
ワールドカップの試合中に落ちたらそれこそ非難囂囂だろうしね。

別な例では、ジブリの映画を最近何週かにわたってテレビでやってるけど、TwitterのTLはその放送時間はかなりそれ関係のTweetで埋まる。ちょっと前の放送ではラピュタの例のシーンでのTwitterや2chやでの「バルス!!」超同時書き込みでサーバが落ちたりする(すごいよなーアニメとネット民パワーは(笑))

僕とかは、今やジブリの映画なんてレンタルビデオで何時でもなんぼでも見れる筈だから、
「テレビで放送する時に敢えて見んでもいいよ、CMとかウザいし」
とか思っちゃうんだけど、視聴率はかなり伸びたりするのを見るとどうもそれだけでは無い。
家の娘は録画してある名探偵コナンの映画とかを、放送が有るとわざわざ又見てたりするんだけど、本人曰く「ビデオで見るのとは何か違うからやっぱりテレビでも見たい!!」んだそうだ。

きっと、人々は其処で、ゴールや勝利や敗北やバルスを「共有」したい。

同じ「時間」に、「同時」に体験して、そしてその思いを語りたい。番組自体は録画で見れるけど、「その時だけの共有体験」は録画する事は不可能だから。
だから、USTREAMの放送も、アーカイブで残す事が前もって分ってる番組でも、同時にTwitterのソーシャルストリームでTweetしながら見たいから極力リアルタイムで見たくなる。

CDの売上は大きく減少してるけれども、Liveは世界的に動員が伸びているのも同じ「その時だけの共有体験」を体感したいからなのだろう。
ミニシアターの隆盛や夏フェスにどうしてあんな大変な思いをしても皆が行きたがるかもきっと同じ。
テレビ産業も今ネガティブな面ばかりが強調されているが、あらためてこういう面を再認識すれば、テレビというメディアが本来持ってるポテンシャルは相当大きい筈なんだよね。まだまだ捨てたもんじゃない。要はやり方を間違ってるだけで。

「昨日ドリフ見た?」「見た見た!!」(古いな(笑))パワーはやっぱり大きかった。おまけに生放送だったしね。
ドラマ「ムー」のゴールデンタイム生放送(!!)とかもあったし。ドラマでだよ、今じゃ考えられないでしょ。
勿論停電とか場面転換が間に合わなくて郷ひろみが走ってくる(笑)とかのトラブルも結構有ったけどね。

そういうののトラブルも含めて楽しさを共有出来ていたあの時代は、今考えれば素朴だけれど輝いていたのかもしれない。

この辺りに、コンテンツ産業の未来の鍵が潜んでいるに違い無いのだ、と思うのです。

カテゴリー: メディア, 思考 タグ:

大人なのか、子供なのか ~或いは「自己責任」とベーシックインカム~

東浩紀氏がニコ生で「【第1回朝までニコニコ生テレビ!】2月20土曜日深夜放送予定(時間未定)」をやるらしい。テーマはベーシックインカム。小飼弾氏も登場予定だ。

ラジオやテレビでも取り上げられる例が結構出て来ている。

Twitterのハッシュタグ「#bijp」での議論もここ最近はかなり活発になってきた。Twitter上で検索を掛けてヒットする率も日に日に上がっている。

ベーシックインカムについての動画も、Twitterで紹介するとかなりな数がすぐにReTweetされた。

取り上げるblogも急に増えた印象が有る。

日本新党やみんなの党がマニュフェストにベーシックインカム的な政策を掲げている。田中康夫氏が民主党の党大会でベーシックインカムについて紹介していた。

民主党の「子供手当て」や「給付金付き税額控除」もかなりベーシックインカム的だ。

ナミビアやブラジルでは既に部分的ではあるが実施され、格差解消や経済状況改善に成功した例も出てきている。

反対論者の言説も活況を示しているのも、認知度が上がった証拠だろう。

小飼弾氏や堀江貴文氏のベーシックインカムについての本も出版され、本屋で積まれている。

此処数ヶ月で、ベーシックインカムを取り巻く状況は、どうも急速に変化しているらしい。
僕自身がそういう情報にアンテナを述ばしている、ってのも当然有るんだけど、これはもはやさすがにそれだけでは無いだろう。

今の閉塞した経済状況や、政権交代した民主党への不満、そして何よりも「どっかおかしくね?」という正直な、全うな感覚がそれをさせているんだ、と思う。

そこで今回のテーマは「自己責任」について。

今日の僕 @takaro と @yuigon_info氏のTweetを一部紹介します。

@takaro:「オランダで獣姦や獣姦ポルノを違法とする法案が可決」 http://ow.ly/14uYk これは僕には一切関係無いが、某僕のfollower氏にとっては衝撃的なNewsなのではないかと邪推してしまう土曜日の午後であった。

@yuigon_info: オランダと言えば何とかワイフを思い出すが、これについては「本場」だったんかぁ。

@takaro:性について開放的なんですかね? 良い事です。あ、でも規制されんのか。

@yuigon_info: 麻薬・売春・安楽死など、オランダは個人の自由をかなり認める方ですよね。さすがに獣相手はNGとなりましたか。

@takaro: これは国民を「大人」と見做す文化なんだと思いますね。まず「自由」有りき。そしてどうしても齟齬が生じる部分だけピンポイントで規制と。見習いたい。

@yuigon_info: 同感です。我が国では「自己責任」が理解できない人、毛嫌いする人が多数派なので、自由な社会への道は、遼遠ですが。

まぁ最初はかなり退廃的なwニュースを面白いのでTweetしただけだったんですが、こんな議論になった。

前にTwitterで上記の方とは別の某氏とベーシックインカムの議論になって、その方はどうも「自己責任」という概念を非常に嫌ってる。
「ベーシックインカムは”金だけ渡すからあとは自己責任”って政策だから良くない、それは政府のつきはなし、それでは悲惨な結果になる。そんな事する位ならその金を教育の充実に回してリテラシーを上げた方が良い。金だけ渡しても効果的に使われるとは限らない。」
的な(語句は違っているが、大筋として)論だった。

で、僕は
「教育を充実させるのは大賛成。しかし、それとベーシックインカムはパラレルに議論されるべきであって、生活保障をするには、資力調査が有ったり使途限定の給付などよりもベーシックインカムのような現金給付の方が望ましいと思う。」
という(おおまかに言えば)流れがありました。

彼もベーシックインカムに根本から反対という訳では無く、それよりもこちらの案の方がより好ましい、という論旨だったと思います。

で、彼と僕との僕が思う根本的な違いは何か? というと、突き詰めれば
「国民を子供として扱うのか、大人として扱うのか」
の違いだと感じたんですね。

先のTwitterのオランダの例を出せば、マリファナや売春、安楽死などを、基本的には政府が「コントロール」しない(100%しない訳では無い。例えば物量や売買のある程度の規制などは有る)という事ですよね。基本は「自由」。どうしても公共的にヤバい事「だけ」規制を掛ける。所謂オプトアウトです。

人間には大人と子供の区分けが有って、その最大の違いは、子供は物理的、精神的にまだ完成していないので、大人の庇護が必要である、という点です。
逆に言えば、大人とは物理的、精神的に完成しているので、庇護が基本的には必要無い人の事です。

つまり、殆どの人は思い当たると思いますが、子供は「間違う」。

道路に飛び出したり、御飯を食べずにお菓子ばっかり食べたり、火の扱いを知らなかったり、他人の迷惑を考える力がまだ無かったり、それこそ上げれば切りが無い程、「ほうっておく」訳にはいかない人種です。

しかし大人は(原則的には)それらを「自分」で判断する事が出来る、という事になっている。

勿論、これは原則であって、例外はいっぱい有ります。実質大人として扱っても申し分無い子供もいますし、何歳になっても「間違い」を犯してしまう大人も居ます。しかし、例外とはあくまで例外であって、多数派であればそれは例外とは呼ばない。そして、それらはやはり僕の考えでは「少数」だと思うんですね。でなければ社会はそもそも成り立って無いでしょう。



ベーシックインカムは基本的に全国民に無条件に一定額が給付されます。という事は子供にも(色々な案は有りますが、僕は同額が良いと思っています)給付されます。しかし、その例えば8万円を子供(想定しているのは義務教育程度まで)にあげてしまう親は殆ど居ないでしょう。

それは子供が「自分でちゃんと判断が出来無い」可能性が高い、と判断するからです。殆どの場合は親が管理するでしょう。それを判断出来るのが養育者の条件です。

そして、「自己責任」とは、その「自分の判断」で物事を判別出来る大人が、それを解った上で何かをして、その結果を自分で引き受ける、という事だと僕は理解しています。

そして話は戻る訳ですが、先のTwitterで議論した某氏は、それは酷だ、と言う訳です。まぁ気持は解ります。

何故なら、人間は間違うから。

大人だからといって、自分が行った事を全部後に責任を100%持て! というのが酷な場合も勿論有ります。

「自分の想定を越えた物事は一切無い」と言い切れる人は居ないでしょう。ですから此処で言っている「自己責任」とは、何も全部ガチンコで何の保障も無いのが大人のあり方だと言っているのでは無い。それだったら、前も言ったように完全弱肉強食の原始時代に戻れば良いだけの話。しかしそれよりも「上」を目指し、曲がりなりにも改善して改善して今に至る。少くともあの時代よりはトータルではマシになった。

だから、「不慮の事態」には保険であるとか保障であるとかでリスク分散している。これは上手い手を編み出したんですね、人間は。

しかし、それらの「不慮の事態」以外の物事は、大人ならば受けとめる義務が有るし、それを齎した原因を選ぶ権利が有る。

それが本来の「自由」なんだと思うんですね。

ですから、先の某氏の論旨からいくと、
「国民はまだ子供である。だから管理しないと上手くいかない。」
という理論なんだと僕は理解しました。

しかし僕は違う考えです。

人間は思っている以上に賢くなった。それも此処数十年でかなり進歩した。
本当の意味でも成人になったか? と言われれば、正直「もうちょっとかな」とは思います。

しかし、人種や性差による差別を当たり前に思い、軍拡するのが当然だと思い、環境を破壊する事をなんとも思わない考えが支配し、児童労働も当たり前、貧困はあって当然、領土拡大を国民が支持し、独裁政権が跳梁跋扈してた時代。それらが多数を占めていた時代からは、まだ50年も経っていない。

しかし、今は、これらの考えはデフォルトで否定される。もちろん例外はまだまだ有るけど、基本的な立ち位置が変化した。
そんな時代だからこそ、もうすぐ成人しそうな人類、感覚的に言えば、齢18歳位でもうすぐ成人すると思われる人類。

そして、ならば「環境が人を創る」の故事に従い、そろそろ「大人」として扱う方が身の丈に合っている。

と思いませんか? 皆さん。

動脈硬化と治療法 ~或いは江戸時代からベーシックインカムまで~

2010 年 1 月 21 日 コメント 3 件

江戸時代には、飢饉や高い年貢、理不尽な政策などは当然有ったとして、空気はきれいで、一見今よりも貧しい食料事情も、野菜などの栄養含有率は、自然肥料や農薬が無い事によってかなり高かった(つまり同じ量の野菜を食べても数倍の栄養が取れる)らしい。
片や現代は、Netもあるし自動車、石油などの各種エネルギー、通信、機械化、民主化などによって、物質的にも統治的にも一見進歩している。が、我々はその進歩に値するだけ「幸福」になったのか。

そこで、ちょっと想像してみた。

例えば江戸時代の農民。
基本的に極貧。食べものは考えられない程貧弱(栄養面以外でね)。コンテンツ的な娯楽(テレビとか音楽とか本とかNetとか諸々)も桁違いに少ない。ばあちゃんの昔話とか旅一座とか祭りとか一生一度のお伊勢参りとかのみ。
労働もキツい。なんせ機械は無いし農薬、除草剤も無い訳で、単位面積あたりの収穫高はかなり低かった。それで五公五民(50%)とかの税率(時代や場所によっては八公二民(80%)!!とか)なもんで、それは自分達の食べる米すら超贅沢品。生きるのがやっと、というか姨捨山とか口減らしとかしないと成り立たない。飢饉とか村全滅の騒ぎだ。

一方現代のサラリーマン。
今の感覚で言えば個々の違いはあれど、経済的にはまぁ普通。飢え死にする事はまず無いし、娯楽は贅沢言わなければかなり豊富。メディアは増える一方だし、移動も楽。それに伴う娯楽(行楽的な)も旅行もかなり出来る。海外旅行だってここ3、40年は当たり前になった。
しかし労働はどうか。定時出社に満員電車で片道1時間は当たり前。残業も多いし、昔はほぼ無かった近代的なストレスはかなり多い。
まず受験戦争。小学生が夜9時まで塾とか10代に一日16時間勉強とか日々試験に追われるとかふるいに掛けられる日常。そして就活や就職浪人、出世競争、気の合わない同僚や上司との摩擦、左遷やリストラに怯え、会社が倒産する場合も多々有る。年金もどれぐらい貰えるか老後も心配。本意では無いが生活の為に妥協する事が大前提な社会。賃金は決っして余裕がある生活が出来る程高くはなく、あくせく働かなければやっていけない人が殆どだ。

あなたならどちらが良いですか? きっと殆どの人は「現代」が良い、と答えるでしょう。僕もそうです。当たり前です。

しかし、全体的に進歩しているのはそれこそ当たり前で、そんな事を論じても仕方が無い。そうでは無く、改善された面は当然として、じゃぁ改悪された面は無いのだろうか? というのが今回のテーマ。

さっき挙げた諸々の事柄で、現代のネガティブ面をかなり乱暴に集約すると「労働」に係る事が多いのに気付く。そして労働は殆どの場合、「生活」を成り立たせる為に行なわれている。

確かに江戸時代の農民は厳しい労働をしていた。しかし、物理的な改善が産業革命やITの進歩により行われ、労働の生産性的はこの100年で数十倍から100倍以上改善したと言われている。現在、世界の食料生産は、全人口の2倍を養える程に成長した。しかし飢えている人、餓死する人は相変わらず多い。片や捨てられたり、他分野(バイオエネルギーや効率の悪い飼料など)に回される食料の量はすさまじい。飢えている国で、しかし実は食料の輸出が増加している例は枚挙に暇が無い。

似たような例として、どうして我々はこんなにも日々「時間」に追われているのだろう。どうして、そんなにも生産性が上がったにも係らず、こんなにみんなであくせくして働かなければならないのだろう。
江戸時代の人々は確かに貧しかったのだろう。しかし、家族や親族、村などの共同体でのコミニュケーションは確実に今よりも密に行われていた。というか、そうでなければ、互助をしあわなければやっていけなかったのだろうが。
確かに労働自体はキツいにせよ、日々の労働の合間に空や雲を眺めたり、田圃の脇で遊ぶ子供達や草木を愛でたり、夜這い(笑)文化や元禄の銭湯での大らかさや、ばあちゃんからきく昔話みたいな全部は今激減してしまった。収穫の祭りのワクワク感みたいなのって、きっと今の刺激に慣れきった僕達には想像もつかないのかもしれない。

「有る」のに「貧しい」。食料も、時間も、自然も、幸せも。

単純に、素直に、率直に言って、「変」である。

その「有る」物はじゃぁ何処に有るのか? 逆に言えば、何故殆どの人には、これだけ「有る」はずの物が「無い」のか。

勿論それらの「有る」はずのもの達は、消えてしまっているなんて有り得ない訳で、どっかに溜っている。そう、一部の人達の処に溜っている。
そして、今迄はそれらの人達はそうするインセンティブが有った。だって独占出来てる。いいじゃない。出来てるんだからやるよ、そりゃ。きっと僕がその立場だったとしても、う〜ん、多分やっちゃってるかもしれない。人はまず自分の損得を計算する。そこに矛盾は無い。だからそれは必然だったのだ。

でも、それでは上手くいかない段階に21世紀を略境にして来てしまっている、うん、間違い無く。

何故なら、偏りは下層だけでは無く、上層にも弊害をもたらし始めたからだ。経済が廻らない。誰かが言っていたが、今の不況は人間に例えれば「血」が足りないのでは無い。「血」が上手く流れない動脈硬化なんだ、と。

今迄は体が成長期で、ほっといても体が大きくなっていくので、ある意味放任で成長するに任せていれば大体上手くいっていた。一部の髪や爪は不要だと判断して抜けたり折れたりしていたし、虫歯も有ったけど死ぬ程の事は無かった。無思慮で勢いに任せていても大勢に問題は感じていなかった。
しかし今は体の成長期は略終わり、いつの間にか成人病の兆候が見える年齢になってしまった。指先などの末端がこのままだと壊死してしまいかねない程の重度の状態になっている事を医者から宣告された。このままでは「死」や「昏睡」、少なくとも歩行が困難になるなど「重度の障害」になってしまう事が容易に想像出来る。

これは今迄の上層の人達にとっても他人事では無い。
それが寿命ならば仕方が無いかもしれない。どんな対処をしても老衰だけは防ぎようが無い。しかし、これは違う。医者に行って手術をすれば直る、どころか今迄以上の健康体になる事も可能かもしれないのだ。

ではその対処法とは何か?

簡単だ。つまっている血栓を取り除き、血が流れるようにしてやれば良いのだ。そしてその血栓が出来ている原因は、血栓の廻りの細胞が必要な栄養が行き渡らなずに仮死状態になっているからだ。だったらそこに栄養を与えれば良いのだ、至極簡単な話だ。

血液の量(生産される生活必需品)は十分なのだ。あとはそれを行き渡らせれば良いだけだ。

そう、問題は方法では無いのだ。何処に問題が有るのかを判断する「知性」と、それを実行しようとする「意思」だけさえ在れば、病気は直る。そして更なる健康体に成れるのだ。

まぁ、でも、この人の「肥満」を解決するのはまた別の処方が必要かもしれませんがね(笑)。

足元と壁の向こう ~思考と勇気~

2010 年 1 月 7 日 コメント 2 件

JALをぶっ潰すことこそがデフレ対策だ

民主党の労働政策がはらむ大きな危険

労働・雇用政策はどの党も落第 「派遣禁止」に至っては世紀の愚策だ …

こういった論旨は賛同を得にくい。

JALみたいな国際的な大企業が潰れるなんて大変!! JALの社員やOBは露頭に迷うじゃない、それはこの不況を後押しこそすれど良い訳無いじゃん!!

最低賃金はそりゃぁ上がった方がウマーでしょ!!(多分殆どのアルバイター)

派遣労働なんかが有るから秋葉原のあの事件や派遣村問題があるんだ!!派遣は禁止がいいに決まってる!!

人は目の前のすぐ其処に見える足元の事を多大に評価しがちだ。得てして未来という壁の向う(そんなに熱い壁じゃないんだけどね)にあるちょっと考えれば解る物事に目を向けない。

しかし解りやすい救済がちょっと先の更なる事態の悪化を引き起こしてしまう事は多い。

企業は淘汰されねばならない。でないとゾンビ企業が経済を「悪化」させる。

最低賃金を無理矢理上昇させると、残れた運の良い被雇用者以外には「失業」が待っている。

派遣が悪いのではなく(派遣は雇用を生んでいる)、正社員との「差別」が格差を生んでいる。

ポピュリズムは票を得易いからマニュフェストに乗せるインセンティブが高い。だからそういう政策をする政党は民主主義では政権を取る。

しかし、物事は色々な「規制」が有る事は基本的には「悪」なんだ。
本来は「自由」が「善」なんだ。
そして、複雑な事も「悪」だ。シンプルでいけるなら、それが「善」だ。

今の諸々の法律は、あそこが綻びたからパッチを当て、そこが破れそうだから縫いつける、を繰り返した結果、もう何が何やら解らなくなる程複雑化している。

もっとシンプルに出来るんだよ。そんなに「色々」やらなくても。

しかしそこに進むには、ちょっとだけ「知恵」と「勇気」が要る。

皆、もうちょっとだけ「考えて」「先入観を捨てて」みようよ。

カテゴリー: 思考, 政治, 社会システム タグ:

合理性と利己的判断 ~鴨は古い方が旨い。さて鳩は?~

鳩山首相が窮地だ。母親からの献金問題は、彼の過去の発現を照らせば、辞職も止む無し、ととられても致し方無い。

しかし、鳩山献金問題は視聴率を取れないという。はっきりとは解らないが、今国民は本音の部分で自民党からバトンタッチした民主党政権にまだ「夢」を見ていたいのではないか? と思う。旧態依然とした与党時代の自民党一党独裁から、新しい「Change」への期待で勝ち得た民主党政権。期待の部分は人によって様々だろうが、僕は何処が政権をとるか? というよりも「変化しない事」が嫌で民主党に投票した。大筋ではこれはコンセンサスではないか、と思う。そして、その結果が間違っていた、とはまだ思いたくないからそういう報道が見たくないのではないか? と。

そして、それが総合的に間違っていたのか、いないのかは、まだ解らない。だってたった100日で解る訳がない。

僕は彼の辞職は反対だ。はっきり言ってもう短命政権はうんざりだ。中長期的スパンに立った政策は、小泉内閣の新自由主義的政策以降は何も無かった、と言っても過言ではないだろう。それ程やっては辞めを繰り返してきた訳だ。

今の民主党の政策は、支持出来る事も有れば出来ない事もある。細かい内容はともかくきっと殆どの人はそうだろう。そして、それはどんな政権になっても乱暴に言えばそうなる。

しかし、最悪なのは「何も行われない事」なのではないか。

小泉内閣は賛否あれども、ああいう政策をするとこうなる、という一定の結果は出した。新自由主義的政策(規制を緩和し出来る事は民間に任せる)は全体の経済を活性化させ、しかしそれ「だけ」では貧富の差が拡大して格差社会になる、という結果が(反対意見の人が居るのは承知。それについてはまた後日)。

しかし、その後の安倍、福田、麻生内閣は何か結果を出すにはいかんせん短かすぎた。1年ではプランニングだけで終わってしまう。アメリカの政権(いや、殆どの先進国でもそうだ)を見れば解るように、結果を出して検証するには、最低4年以上は見ないと解らない。

僕は、はっきり言って今回の献金問題は「どうでもいい」。だって僕には全く関係無い、ぶっちゃけ。

彼が金持ちで御坊ちゃんである、という事は彼の個人的な事で僕には関係が無い。企業からの賄賂や買収などの政策に関わってくる金の問題とは完全に別次元だし、そこは小沢一郎氏の問題とは区別して考えるべきではないか。田中角栄や金丸信の時代とは違い、その辺の浄化力は確実に上がってきていて昔程の悪行はかなり減っている。

いや、解りますよ、ああいう国家を代表する公人が「脱税」を結果的にしていた事への社会的な責任論や、首相がやってんだから俺達もやろう的な輩が出てくる事のデメリットなど。そんな事は百も承知だが、そんな事で政権が交代するデメリットの方が、今の予断を許さないこの世相では大きい、と僕は見る。

人間、嫉妬や揚げ足、日刊ゲンダイ的なゴシップ、悪口を言って溜飲を下げる井戸端会議的な心理はストレスのてっとり早い発散にはなるだろう。しかし、いいかげんそういう幼稚で短絡的な事はやめてみても良いんじゃないか?

もっと大人な、中長期的な判断、俯瞰で物事を見る姿勢に立って、曲りなりにもあれだけの支持を衆院選で得た(つまり民主主義の手続での結果だ)政権に小異を捨てて大同に付く的な立場で物事を考えた方が「俺達」にメリットが有るんじゃぁないか? 少なくとも民主党に投票した多数派の人達にとっては。

昔クリントンが不倫問題で窮地になった時も同じ事を思った。いや、それ国民と関係無いだろう? と。彼の公人としての能力と私人としての行いはリンクする必要が無いのだ。倫理的に問題があったかもしれないが、反社会的行為では無い。じゃぁいいじゃん、そんな事。結果アメリカではあれは大した問題までには発展しなかった。ヒラリーの態度は大人だった。

人は悪い部分は目に付きやすいようで、そこばかりを注視してしまう。しかし、もっと大局的に皆が考えた方が、結果的に自分達の利益になる事はまだまだ多いんじゃないだろうか。いいかげんそこに気付こうよ、一部のマスコミやそれを支持してる国民も。

鴨は取り立てよりも、吊して目からウジが湧く位の方が旨い。では鳩はどうなんだろうか? 試してみなけりゃ解らないさ、ウジが湧くまで待たないと。

完全な人間など居ないのだ。そんな姿勢では誰が首相になってもどこかはつっこまれる。問題は、それが本当の意味で僕等の利益に繋るのか、そうで無いのかを冷静に僕等が判断出来るようになる事じゃあないのかな。

もっと合理的になろうよ。

カテゴリー: 政治 タグ:

裾野が広い山は山頂が高い ~又はBACHとベーシック・インカムとある女の子~

2009 年 12 月 30 日 コメント 2 件

此処に一人のアマチュア作曲家が居る。僕から見ると、才能は有る。結構有る。良い曲を沢山聴かせてくれたし、年々そのグレードも上がってきているのが手に取るように解る。

しかし、彼女はフリーターだ。地方から出てきて一人暮しだし、東京の物価はデフレとはいえ結構高い。家賃や光熱費、交通費、通信費、切り詰めてはいても、食費や被服費や作曲に必要な機材やソフトウェアもある程度の出費は必ずかかるからだ。

これらの生活費を稼ぐ為にバイトは欠かせない。平均週に5日働いて、やっとこれらの生活費にぎりぎり届く位だ。給料前には食事も目に見えて質素にならざるを得ない。かといって就職(これも今や簡単に出来る訳では無いが)してしまうと、ライブのリハーサルや本番を平日に行う事は出来なくなるし、何より彼女の気持の上では、それは敗北と思えた。

そして、日々の仕事以外の時間を、作曲やライブの準備、ライブの本番に当てている。

音楽業界も今ご多分に漏れず不況だし、彼女の志している音楽は、所謂J-Popでは無いので、そのジャンルでよほど高みに登らなければ、実質音楽だけで食べていくのは不可能に近い。

そんな生活を数年続けていたのだが、彼女は元々一般的な職業にはお世辞にも向いているとは言えず(音楽家にはこういう人が本当に多い。音楽有ってよかったな、って人)、バイトも色々ストレスが多すぎたり、問題が起きたりしてかなり転々としていた。

そして、とうとうそういう生活にも疲れ果ててしまい、将来への不安や両親からの説得も有り、彼女は田舎で就職する事を苦慮した末にしぶしぶ選んだ。
しかし、作曲は続ける事は出来ても、それまで活動の中心としていたライブハウスでのライブ活動は断念せざるを得なかった。

そして、結果的に彼女は音楽を創る事を殆どしなくなってしまった。


これは架空の話だが、似たような若者はこの20年間に山のように見てきた。彼等は才能が有るものもそうでないものもいたが、殆どは夢半ばで別な道に行ってしまい、その後の行方は殆ど知らない。

昔も同じような境遇の人間は山程居ただろう。そして、芸術家を志した殆どの人々は、やはり夢半ばで去っていったのだろう。

しかし、運の良い極一握りの人達は、「パトロン」というスポンサードシステムにありつけた者も居た。

現代でも、日本の伝統芸能では、国や地方自治体の芸術振興に対する補助金などが無いと成り立たないものの方が多い。
近代ヨーロッパの作曲家達は、貴族や領主、王族のお抱えや彼等の音楽教師が多かった。
今の商業音楽業界でも、前程では無いが、有望な新人を育成するシステムが有って初めて成り立っている面が多大に有る。この場合は、間接的に現在の売れている音楽家がパトロンになっている。

芸術は、生活必需品を生産する職業よりも、その性質上直接収入に結び付きづらい面が有る。そして、高額所得者、お金持ちの人々が社会的なパトロンになる事によってかなりな割合の芸術家が作品を残す事が出来た面は否めない。
逆に言えば、それらのパトロンが無ければ残っていなかった作品がきっと数多有るという事だ。

僕ほ個人的にBACHが好きなんだけれど、きっと彼も宮廷楽長などの地位が無く、他の職業を持っていた兼業音楽家だったら、1000曲以上の作品群を産む事は出来無かっただろう。いや、世に出たかさえ危うかったかもしれない。

しかし、彼等のように残っている芸術家は所詮全体の「一握り」でしかない。素晴らしい音楽家はきっともっと沢山居た、潜在的には。しかし、様々な理由でその「才能」を「収入」に結び付ける事が出来無かった為に活動をする時間を減らされ(または全く活動出来ずに)忘れ去られてしまっているのだ。


但し、僕が此処で述べたいのは人道論では無い。そういう人達が「可哀想だ」という事を語る事も出来るが、今はそれが目的では無い。もっともっと利己的な事だ。

僕が言いたいのは、極々単純明快な事。

「もったいねぇーよ!!」

この一言だ。

もうあまりにも勿体無い。単純に1リスナーとして勿体無くって仕方が無い。芸術は人類の財産だ。それが減ってると思うともういてもたってもいられなくなる。
最初に挙げた作曲家の卵の話も、もし彼女が音楽を続けられていたら産み出したであろう素晴しい曲達の事を思うとやるせない。

確かに現代は道具やNetも発達したし昔に比べれば物理的な環境面では恵まれている。技術の進歩によって、昔なら何億円単位でしか手に入らなかったような環境が数万円で手に入るようにはなった。発表の場も桁違いに増えた。それはいい事だ。

しかし、まだまだ勿体無い。そういった環境が有ってさえ、又は分野によってはこれらの技術的進歩があまり関係が無い分野なら尚更、まだまだ出来るはずなのだ。今迄よりももっともっと彼等、彼女等の本来の才能を開花させる事が。

何故かって?

現在と過去では、一つ決定的な違いが有る。「社会の生産性」だ。今人類は全人口の倍の人数を食べさせる事が出来る生産性を手に入れた。これってすごい事だ。その分配がうまく行ってない為に相変わらず飢えて死んでいく人々がいるのは情無いが、これは事実だ。

そして、生産力が有り余っているならば、その余剰を彼等のような生産が即収入に結びつきづらい人達に上げてしまえばいいんだ。ベーシック・インカムとして。

そうすれば、彼等が作品を生み出す事に対する社会的なハードルがぐんと下がる。今迄週6日働かなければ生活が成り立たなかったのが、週に2日働けば生活出来るようになるかもしれない(この辺はベーシック・インカムで幾ら保障するかによる)。そして、その余剰の時間を思う存分創作活動に振り向ければいい。そして、そうやって創作された作品を我々は今の何倍も享受出来るようになる。


うん、分ってる。これを読んでいる人の中のかなりな人が今

「でも、才能が有る人なんてほんの一握りなんじゃぁないのかな? だから、そういう才能が無い人にまでそんなお金を渡すなんて無駄なんじゃないの?」

と思っているだろう。そう、一握りだというのはその通りだろう。ベーシック・インカムによって芸術に専念出来る人の、多分殆どはそんなに才能が無い人かもしれない。

しかし、それでいいのだ。何故なら、裾野が広がるという事は、その山の山頂がより高くなる、という事を意味するから。要はクオリティーが上がる、という事だ。

これは別の機会にblogで書くと思うが、今経済は対象となる個々全てから収益を得るというシステムが徐々に風化してきている。Googleなどは、ユーザの殆どには課金していない。

でも、Googleの収益は、今やアメリカの自動車業界と航空業界を合わせたよりも多くなっている。それはとにかくユーザを増やす事によって、広告費を出しているクライアントに対してのインセンティブを上げているから、一部のクライアントからの収益だけで、それ程の金額を稼ぎ出せているのだ。要はその方が全体的には効率的って事なんだ。

こういった効果は、実は何もこういった事だけに限らない。ベーシック・インカムが有って基本的な生活が保障されれば、例えば科学分野での研究や、ITでの画期的なアイディアで飛び出てくる人が今よりも飛躍的に増えるはずだ。何故アメリカからばかりGoogleやAppleやAmazonやMicrosoftやIntelが出てくるのか、何故日本からそういったイノベーターが出てこないのか。

これは「失敗が許される社会」と「失敗が許されない社会」の違いなのだ。

アメリカでのベンチャーキャピタルの投資を見てみれば解るように、彼等は100社に投資したらその中の1社が成功してくれれば良いと思って投資している。それで十分元が取れる公算が高いから、そこは日本的な「失敗してはいけない」などという心理的な枷が無い。もっと合理的に考えている。だから、ベンチャーも極端に言えば「当たればめっけもの、失敗しても元々」というスタンスで企業出来る。そして、その中から先に挙げたような本当のイノベーターが出てくるのだ。

しかし、「失敗したら人生終わり」的な考え方だとそうはならない。日本は基本的には失敗を潔しとしない文化が強く、結果、裾野が狭いので山頂も高くならない。だからそういった企業が全然出てきていないのだ。

ベーシック・インカムを導入すると、色々な分野で裾野が広がる。そしてそれは回り回って結果的には全員の利益になっていく可能性が非常に高い。
そして、その「裾野」が有るからこそ、山頂が有るんだ。決っして裾野は「無駄」では無い。

そう言えば、BACHっていう名前は、古語で「おひねり」や「ギャラ」という意味だったんだそうな。社会全体がパトロンとして、芸術家に「おひねり」を出せれば、今と全く違う芸術の世界がそこには出現するのかもしれない。

もう、僕は「勿体無い」をこれ以上見たくないのです。

ベーシック・インカムは共産主義ではありませぬ ~資本主義インフレマージャン説~

2009 年 12 月 10 日 コメント 2 件

最近このblogを読んでる読者やコメントなんかでよく

「ベーシック・インカムとか共産主義でしょ? 資本主義の今の時代に危険思想じゃね?」

とか言う人が複数人居たのでその反論。(麻雀用語が色々出てきますが、知らない人すいません、不明な用語は要は博打性を助長するものぐらいに思って下さい)

ベーシック・インカムとは、ググると沢山説明が出てくるので概念ははしょりますが、全く無差別に、つまり国民全員に、個人単位で一定額(よく言われるのは月額8万円とか)を、無条件で配るシステムです。この辺とか分りやすいです。

要は「富の再分配」です。で、その「分配」がどうも「共産主義」と被るらしい。

しかしよーく考えて下さい。生活保護とか累進課税とか年金とか児童手当とか公的扶助とか公共事業とかはどうなんでしょう?

それらを「共産主義」と呼ぶでしょうか?

よく言われるのが、「日本は世界で最も成功した社会主義国家である」ってやつです。

これも一理有ります。確かに、アメリカなどの「自己責任至上主義」の国と比べると、社会保障や国策産業が充実(?)している日本はかなり「社会主義的」とも言えます。

しかし、オバマ政権発足、リーマンショック以降のアメリカはちょっと方向性が変わってきました。「大きな政府」を理念とする米民主党から大統領が出たせいもあり、あまりにも「自己責任型」の医療保険の見直しや、GMへの国費投入による救済などが行われようとしています。しかし、それはどうなのか? 本来の「自己責任」で言えば、病気になるのは自分のせいだし、企業が潰れるのも企業のせいなので、ほっときゃいいじゃないですか。振り込んだら自己責任で払うでしょと。

しかし、「社会」というものは、得てしてその「自己責任」とは真逆な事を求めます。何故なら、自己責任を究極まで求めるなら、法律なんかいらないからです。自己責任が何よりも勝る至上価値なら、ルール無しの「なんでもあり」の社会にすれば良いんです。殺されようが、盗もうが自己責任。ある意味すっきりした社会ですよ。

しかし現代においてそんな国は皆無。何故なら、「社会」の本来の目的は「主義の実現」なんかではさらさら無いからです。じゃ「何」が目的なのか?

簡単です。社会の本当の目的は、「幸福」だからです。それも、なるべく多くの「幸福」。より皆にとっての「幸福」。

麻雀に例えれば、トップがあまりに御祝儀もらいすぎて、その他の人がゲーム続行不可能になってしまってるのは「幸福」ではないですよね。そうなるとトップの人もゲームを楽しめなくなってしまします。

しかし、ここまでは皆の意見は一致している。これに反対する人々はほとんど居ません。しかし、じゃぁその「幸福」を実現させる「方法」となると意見が分れる。

私有財産を否定して「結果の平等(能力が有る人も無い人も経済的に同じ結果を得る権利が有る)」を求めた一派は「共産主義」を目指しました。国が経済をコントロールするのが大事と考え、計画経済を実行し、その結果、労働意欲が減退し、計画経済は大失敗。

今「共産主義」を標榜している国は数える程しか無いし、それらの国は、純粋な「共産主義」ではもはや無く、資本主義を導入したハイブリッド型が殆どです。

これはマージャンでいえば、マージャン自体を否定して、最初から卓に有り金皆で出して当分するシステムです。マージャンなんかすっからだめなんだ、と。しかし場代は税金としてとられます。これはもう非常につまらん。

片や、能力に応じて財産を得る事を標榜した一派は「資本主義」を実践しました。これは頭に出てきた「自己責任」を原則とし、どうしても人間の道徳的にまずいと思われる部分に対処する為に「社会保障」を設けはするが、それは「例外」「しかたがない部分」として最低限とし、極力稼ぐ能力の有る人はどんどん稼ぎ、貧富の差も自己責任だからしょうがないね、という思想です。

これは超インフレマージャンです。上がった純粋な役の点数「以外」の「超ウマ」「超オカ」「超御祝儀」「赤ドラだらけ」「焼き鳥有り」「ワレメ有り」。実力よりも「運」が大事。一度トップになったらサクサク場を回して終了。一回トップになったら超有利、トップ以外は意味無し。これも果たしてどうかなぁ、と。

しかし、この相反する二つの思想は、まず「共産主義」が前世紀末に没落し、「資本主義」も今やかなーり怪しい感じになってきています。


共産主義が没落してソ連が崩壊した時は、「やっぱり資本主義こそ正しかったんだ。やっと人類は正解に辿り着いた」と思った人が多かった。何故なら、大きく分ければ、人類はその二つの思想しか持ち合わせていない、と思っていた人が殆どだったからです。あれが駄目なら、消去法でこれ、つまり「資本主義」しか選択肢は無いんだと。ゲーム自体をしないか、超インフレマージャンか、みたいな。

しかしどうでしょう。その「資本主義」を実践してきた結果、人類の「幸福度」は上がったのでしょうか?

競争原理を至上主義とし、皆がその舞台に乗り、一番になった人以外はある意味全員敗者。勝つ為には手段はあまり選んではいられないので、勝利以外の価値観が蔑ろになり、その結果、「成長」し続けないと回らない経済、という前提を皆が当たり前と思い、環境保護や弱者救済などは勝つ為にはじゃまなので本当にどうしようもなくなるまではとりあえず「ほっとく」社会が出来上がりました。

でも、ここいらでもう一度当初の社会の「目的」を本当の意味で思い出す必要が有るんじゃないでしょうか? そう、「幸福」です。マージャンならゲームを楽しむ事です。

このやり方で、皆さんは「幸福」なんですか? 誤解を恐れずに言えば、「主義」なんかどうでもいいんです。過去に失敗をしたならそれを反省するのが高等生物たる人間の証しなんではないんでしょうか?

「結果の平等」「計画経済」「競争至上主義」。これらの失敗は繰り返さず、現在の良い部分は残し、新しい発想を持てば、少くとも今よりはよっぽど住み易く「幸福」な社会が創れるはずなんです。

「結果の平等」は、モチベーション、イノベーションを妨げます。

「計画経済」は、ある少数の人間(政府)が計画する事は、各々が勝手に振る舞うよりも上手く事が運ぶ、という傲慢です。

「競争至上主義」は、モチベーションやイノベーションにはプラスに働きますが、「勝たなければダメ」という発想が無理を産み、全体の幸福度を下げる傾向が最近の経済状況を見ると読み取れます。

平等は、「機会の平等」とすれば価値が有ります。生れた環境によって教育を受ける機会に差をつけず、純粋にモチベーションや適正により進路が決められるシステム。

あまりに複雑化している社会では、少数の人間の予測なんて殆どが外れてしまうのは、日本のΣ計画とかを挙げるまでもなくもはや自明です。そういう事は市場に任せるのがベターなシステム。

勝ち組(この言い方ももはや古臭いと感じますが)だけでなく、そうでなかった大多数の人々も安心して生活が出来、「恐怖」によらずに次に進めるシステム。

こういった事が、ベーシック・インカムを導入する事によって実現出来ます。再分配は共産主義ではありません。

南の島で、昔の現地の人達が、その辺の木になっている果実を食べたら共産主義ですか? 違いますよね。

このような公共財は今や昔とは比べ物にならない位増えているのです。過去の、そして現代の人々の知恵によって。ただ、前も言及したように、その「果実」を、結果極々一部の人が独り占めしてしまうのが今の「資本主義」なんです。マージャンの「ウマ」とか「オカ」とか「御祝儀」が「極端」に多い状態みたいなもんです。

しかし、その勝ち組の人はその人の能力で稼いだ部分(本来の上がった点数)を十分に受けとり、そしてそれ以外の「果実(ウマ、オカ、御祝儀)」を皆で分ければ、結果社会の「幸福度」は少くとも今よりも俄然上がるシステムが創れるはずです。

要は超インフレマージャンをやめて、役だけの実力ガチンコ勝負をしましょうね、って事なんです。

でも、なんとか主義みたいな呼び名なんか本当はどうでも良いんですけどね。

Google日本語入力は言語の進化を加速するか?

2009 年 12 月 5 日 コメント 4 件

まさに「いきなり」発表されたGoogle日本語入力略してGNN。

本当に何の前情報も(僕的には)無く唐突な発表だったけど、この処のGoogleの攻勢はまさにとどまる処を知らずというか、またしても賛否両論を呼ぶネタが増えたかなと。

というのも、このGNN、まず

「無料」

です。まぁ、Googleの一般向けサービスはほぼ全部無料なので、今更ではあるんですが、一番競合するであろうATOKを要するジャストシステムなどからすれば「かんべんしてください!!」でしょうね、正直な処。ATOKもSolaris版は無料のようですし、月額版とかもあるけれど、一太郎のシェアの低下なども考えると、創業者の浮川夫妻が先々月で引退したのも偶然では無いのかもしれません。

しかし、昨今のクラウド化への加速度的な進化をみるにつけ、MS Officeの動向とかも確実にこっちに引っぱられてますよね。

そして殆どの場合、それはその引っぱられる方は「しかたなく」感が見え見えである、ってとこが非常に興味深い。

次に、GNNの変換効率。

「ひとがご→人がゴミのようだ」

「いたがきし→板垣死すとも自由は死せず」

「すずみ→涼宮ハルヒ」

「よるは→夜は短し歩けよ乙女」

「かぎりな→限りなく透明に近いブルー

などなど。最初のとかはNet上でやりすぎ!!説とか、よくやった(笑)説も出てますが、今は実用性云々は論じません。それよりも、このWeb上の情報を統計的に解析して作られたというGNNの意味は、そこには「正しい日本語」でなければならない、という観点が基本的に無いという事です(全く無いとは言いませんよ)。

確かにATOKやMSIMEやことえりなども、正しい日本語とは言えない語句が出る事はままありました。しかし、GNNの最大の特徴は、その辞書の変換候補を選ぶ基準が「Web上にマジョリティとしてあるかどうか」だけであるように見える処。

Googleサジェスト(もしかして…機能)を担当した方が開発に携わっている、という噂もあるので、なおさらそうである可能性は高い。

無料であるという事、そしてこのある意味やりすぎおせっかい感満載wの変換、MSIMEの相対的な出来の悪さ、を考えると、GNNが今後結構なシェアを取るかもしれない。Androidにも搭載されるんでしょうし(もうされてんのかな?)、まだそうはなっていないようですが、辞書登録をGoogleにフィードバックするようになって、辞書更新も自動で反映されるようになったら(Googleならすぐにでもやりかねん)…

こうなったら、言語の変化(進化?)のスピードがかなり加速される可能性がある。

今迄も言葉は時代によって変わってきました。僕が子供の頃と今でもかなり変わってきたのが体感出来る位、変わるスピードを実感出来る。Internet以降はジャーゴンや2ch語がリアル世界にじわじわ染み出してきてる。

そして、その変化の源泉は、今迄に無い程フィードバックの速いWeb上のその時々の人々の発する「言葉」。

「新しい」は今は「あたらしい」だけど、最初は「あらたしい」だった。それを言い間違えた読みが何故か(多分語呂とかでしょうね)普及して「あたらしい」が正しい読みになった。こういった言語の変化は多種多様に有るけれど、きっとこれからはそのスピードの速さが何桁か上がるかもしれない。

集合知が注目されて早何年もたつけれど、こないだのTwitterしかり、GNNしかり、「量が質を変える」の一歩先にはどんな光景があるんでしょうね。

え?僕ですか? 僕はKeyboard派のひねくれもののマイノリティですので、今後もSKKです(笑)

人間脳細胞化仮説 ~っつぅか、やってみ? Twitter~

2009 年 11 月 28 日 コメント 2 件

今朝のタイガーウッズの事故の報道に対する記事

インターネットが新聞やテレビを滅ぼす確証を今朝のタイガー・ウッズ事故報道にまざまざと見た
で言及されてる「速報性」でも表れてるように、個々人が繋るTwitterの可能性は多分今皆が想像してるよりも大きいんじゃないかという話。

手紙、電話、ラジオ、テレビ、パソコン通信、e-mail、Web、2chなどの掲示板、blog、そして今Twitterの急速な広がり。

情報の伝搬するスピードが加速していく度に、世界は狭くなったと言われ、井戸端会議で伝わっていた情報が、とうとう速報性も含めて世界規模になる。

一見、単なるスピードの変化で、質は変化していないようにみえるけど、量が質を替える事がある。

コンピュータの処理速度や通信速度が一定量を越える度に、GUI、静止画、音声、動画、リアルタイム3Gと扱える事が質的に変化した。物事はある臨界点を越えると、一気に風景が変わる事がままあるのだ。

水は0度と100度を境として形態を変える。同じ事が情報の伝搬にも起きてるんじゃないか?

手紙とYouTubeの違いのように、人と人とのコミニュケーションがある程度以上密になると、「気持」とか「雰囲気」とか「感情」とかが、一個人だけじゃなくて、2chのスレとかblogのコメント欄とかTwitterのハッシュタグとかで一つの塊になって、そしていきなり地方自治体とか国とか関係無く、いきなり言語圏全体、そして最後には地球規模に広がる。そして、そのスピードがある一定量を越えると、今迄の世界で常識だった権威(既存のメディアや政府)をある意味ないがしろにして、別な意識を持った集合生物(ハチとかアリみたいな)に近づいていってる気がしてならないのね。

でも、それはある意味前からあったんだけど、伝達速度が遅いから、まだまだ個人の方が表面化してる度合いが強かった。でもTwitterレベルまで高速化してその伝達が実現され、更にテキストだけじゃなくて声や画像がからみあってきてる今、電話が出来た時に 得たインパクト(これってすっげー事だったんだよね)に次ぐ2ndインパクトなんじゃないかと。

僕がこのblogで最近書いてるベーシック・インカム話も、こういう概念が浸透して表面化するのって、今迄は何年、何十年とかかってた事が多いと思うのね。このシステムの発想は何十年も前からあったんだけど、そっからなかなかブレイクスルーしなかった。でも、今年になってからのこの盛り上がりは、こういったコミニュケーションの進化がものすごく影響してると思う。Internetが出てきた時もまだここまででは無かったし、かといって、Twitterが齎したというにはまだまだ早いけれどもね。

こうして、人間は個々人が脳細胞化して、集団生物としての新な道をつっぱしるのであった。嘘です。

で、僕はこういう新しい風景が見えて、何か新しい事が始まる萌芽を体験するのが大好き(笑)なんで、皆もTwitterをやりましょうというオチ

twitter.com


日本のTwitter文化の第一人者である津田大介氏の著書。僕も今読んでます(笑)。

Get Adobe Flash playerPlugin by wpburn.com wordpress themes